さいごであること

 *先週のお題です 書きたかったので、おそばせながら。

 今週のお題「平成最後の夏」

 

  わたし、別にパリピではないから、この夏。特に何もしませんでした。遊んだり、海に行ったりしている友達を横目で見ながら。いいねえ、確かに私もちょっとは行きたかったかもしれない、お祭りとか。旅行とか。でもそれはあくまで「ここ数年間行ってないから久しぶりに行ってみたいな」とかいう、あくまでそれだけの話で、だから別にそれが今年でなくてもそう思っただろう。私はなにげ、「へいせいさいご」ということばの魔物から影響を受けずに過ごしているけうな人間であるかもしれない。むよくだから。

 

 最後という言葉には魔力というか、人に焦燥を与える力を有しているとずっと思っていた。例えば偶々行き会ったパン屋さんで、別に当初、何も買う気はしていなかったのに、店員さんから、

 「このパン人気なんですけど、ちょっと材料買うのが厳しくて…。今回で、最後にしようと思っています」

  とか言われちゃって、入れ物の中にたった一個しか残っていないパンを見せられちゃったら、なんとなく、買わなきゃいけない気がしたり。また、話が飛躍しすぎかもしれないけど、例えば病院で不治の病と医者から宣告されて、生存期間まで提示されてしまって、ではその間に、何かできることはないかと必死に奔走したり。

 さいご、という言葉には切実さがあって、もうもどることのできない、という意味もひそかな感じとして存在しているとおもう。それでおわりです、ぱっつん。今までのつながりが突如切られて、もとの所にはもどれません。ざんねん、じゃんじゃん。本来なら私も、さいごという言葉に恐れをなすはずなのにね。なんでだろう、年号なんか変わっても、私が生きているという証拠はかわらない、と強くにんしきでもしているのだろうか。

 今まで読んだ本で、わたしの感じる焦燥と強くリンクしたのは、森絵都の、「永遠の出口」だった。ある女の人の、おさないころ(小学生だったかな?)から40歳になるまでくらいをかいた連作短編集なのだけど(詳しくは実物を読んでください)、そのなかで、彼女が家族とともに何らかの旅行にいったとき、姉から、とある工芸品かなんかを指して、あんた見てこなくていいの、もう見ることはかなわないかもしれないのにと言われる場面がある。それを受けて主人公は、たまらなくなって、その物の前に駆けていく、みたいな。おさないころからじぶんにはそういう性質があった、と語られて、それをよんだわたしはおもった。 ちょーわかる。

 わたしにも似た経験があって、以前、県の補助を受けて沖縄に行く、みたいな事業に参加したんだけど、沖縄行って、満喫して、さあ帰るぞ、という時になって突然、

 「わたしシークワーサー飲んでないじゃん…? 沖縄きたのに…? あほじゃん…?」

という心地に襲われて、時計も持ってない中大急ぎでペットボトル入りのシークワーサー500mlを買いに行ったことがある。時間にも間に合ったし、ちゃんと買えました。ひどく酸味が強くておいしかったのを覚えているけど。

  ざっくり言うとこんな感じかな…? 言いたいことは以上です。主張にみゃくはくがないね。ちなみに、やってはいないけどしたかったことと言えば、疲れているであろうあこがれの人の、てのひらを指で揉みしだくことくらい。日々疲れているであろうあのひとのこと、いやしたかった。出来やしないけど。